ヴィパッサナー瞑想 思う事

ヴィパッサナー瞑想について思う事。

前にも書いたが、ヴィパッサナー瞑想は、というか、ブッダの知恵も含めて、これは人間の生き方説明書的なマニュアル的なものではないかと筆者は思っている。

 

 

人間はオギャーと産まれて、親に育てられて、学校教育を受け、社会に出るという受け皿があり、その過程で色々学んで行く訳なのだが、人によって何を学んだか、親からの影響など、全くバラバラの個性が出来る。

 

 

個性は個性で素晴らしいのだが、例えば変な宗教などの家に産まれてしまい、幼少からそれが普通だと教えられ育ってしまえば、それが当たり前と信じて疑わない人間が出来上がる。(失敗すれば反作用が働きアンチな人間になるだろう…筆者はまさにそれ。)

 

韓国の例を見てみても、徹底した反日教育が国ぐるみで行われており、子供ながらに日本人は死ねばいいのにとか平気で言える思考を作りあげたりしている国もある。

 

 

また、学校教育も統一ルールがあるのだが、これもいわゆる一つの組織の元、教科書というルールの中でそれが正解という人間が作られてしまう。嘘だろうが教科書が本当なんだ!という人間が育ってしまう。

 

日本では右に習え!というのも学校教育で自然に教育されて育つ訳だが、これらは誰かが意図的に作ったものである。

 

 

学校で教わる、他人を蹴落とせ・人と違う事するな・競争社会を勝ち抜け!というものは、ハッキリ言うが、いじめや自殺が多発して当然の社会が出来上がるだろう。
そこには全く愛が感じられない利己主義社会、弱肉強食の世界だ。

 

 

 

まともな人間がなんなのかという定義は全くそこには存在しない訳なのだが、最も人として大事な事を誰も教えていないように思う。
人間臭さとはどこで習うだろうか?学校・家族・友人・テレビドラマや映画、友情などはアニメだったり…

 

 

それでも全く足りていないと思う。

 

 

道徳の授業などはやるが、人間とはなんだ。
なんで生きてるのか。
なぜ苦しいのか。
欲とは何か。
自分は何だ。

 

など、そういった事は、ほとんどの方は何の疑問も持つことも無く生活して一生を終えて行く。

 

これがごく普通なのだろうが。

 

 

よく考えると奇妙な話でもある。

 

 

一番身近な自分というものに興味を持たないのだから。

 

 

だけど、興味を持った時にじゃあどうすれば良い?となると、巷にはそういったバイブルを上手く利用した新興宗教というものが口を開いて待ち受けている。

 

辛いですか?
苦しいですか?
これをやれば楽になりますよ
病気が治りますよ!
人生楽しくなりますよ!

 

と、待ち構えている。

 

 

 

別に宗教でも良いのだが、宗教には自己の探求以外にも、政治や権力・派閥争い・営利目的だとか色々な問題が必ず関わって来る。

 

 

入るのも構わないが、そういった事に巻き込まれる事になるという事は覚悟しておいた方が良いだろう。
組織というシステムの性だとも思う。

 

 

 

しかし、そういった人間の作り出した柵などに巻き込まれる事なく、ただ純粋に自己の探求をしたいのであれば、こうしたヴィパッサナー瞑想などはおすすめである。

 

 

 

ヴィパッサナー瞑想は、犯罪が無くならない地域の刑務所で取り入れられ、凶悪犯罪者をも善人に変えてしまうという程の力を持っている。

 

 

愛を教わって無い人は、愛を知れば人を傷つける事など出来なくなる。

 

そういう力を持っている。

 

凶悪犯罪者は死刑になどしなくとも、人を傷つける事がどれだけ悲しく虚しく、また、自分を傷つける行為なのかを知ってもらえば良いと思う。

 

でないと、死刑宣告人もまたその歯車に巻き込まれてしまう事になる。

 

 

人の作った法の上だから人を殺して良いという事にはなるはずもない。

 

 

因果応報とも言うが、行いは必ず帰って来る。
人を殺せばどんな形であれ、それを一生背負う事になるだろう。
戦争も全く同じ。

 

幾ら大義名分を掲げつくろってみても正義の人殺しなどありえないし、許される事ではない。

 

それらに巻き込まれないようにするには

 

 

 

悪い行いをしない事。
悪循環は断ち切る術を知る事。

 

 

ヴィパッサナー瞑想はそれを自己の身体をもって教えてくれる。

 

 

 

また、宗教では、神は外にいると説かれる。

 

仏像だったり、仏壇だったりの対象が必要になる。

 

 

だけど、ヴィパッサナー瞑想では対象を外にはもってはいけないとされている。

 

 

対象は内側にある。

 

心にある。

 

 

 

人が神と例えるものはどこかにあるものではなく、神は皆の心の中にある。

 

 

みなが、この事実を理解すれば、もっと争いのない、自殺の無い、人を傷つけない社会が出来上がるだろうなと感じる。

 

 

 

 

インドで、息子が殺された方が、その殺した相手を息子の変わりとして迎え、しばらく一緒に生活する罰というものが紹介されていたが、どんな罰よりもこういうものは意味があるのではないだろうかと思う。

 

その母親が、どれだけ殺された息子に愛を注いでいたかを身を持って味わう事になる。

 

人間であるのならば、それをたかだか自分の一時の欲求によって破壊してしまった事に、とんでもない事をしてしまった、と、取り返しのつかない自分の行為を思い知るに違いない。

 

 

 

また、受け入れる母親も綺麗事ではなくとても辛い試練だろう…
息子のかわりとは思いたくとも、息子を殺した人間に家族のように優しく振舞うなど、これは罰かと思える位に憎いだろう…。

 

 

しかし、どんなに憎もうと、その犯罪者を殺そうとも、息子は戻る事はない。
犯罪者を殺してしまっても、今度はその犯罪者にも家族はいるかもしれない。

 

息子を殺されたから、今度は私が犯罪者を殺す、では永遠にその苦しみ憎しみの歯車は止まらなくなる…。
自分の手を汚さずとも、殺人者と同じになってしまう。

 

 

結局、最善は自分で気づき止めるのが一番なのだ。

 

 

 

そして、人はそれを許す事も出来る。
死ぬほど悔しい、苦しいかもしれないが…それを許し、また愛した例もある。

 

そして、その愛が伝わり、本当の愛を知った時に、犯罪者は罪の重さを改めて感じる事ができ、母親・息子・家族・親族に対し、心から反省する事が出来る。

 

また、その母親に神のような崇高なものを同時に感じるのではないかと思う。

 

 

 

宗教ではないのだし、こういう事を一般論として学ぶ場があっても良いと思う。

 

そうすれば、もっともっと生き易い世の中になっていくのではないかと思う。

 

もっともっと人にやさしく出来るようになるのではないかと思う。

 

そういった意味で、ヴィッパッサナー瞑想は、人間の生き方説明書だと筆者は思うのであった。

 

 

 

ブッダの悟りは、なぜ人の世は苦しみに溢れているのか?という原点があり、解決すべく悟りへと至った経緯があるので、何も悟りをゴールとしなくても、この知識と戒める方法があれば、苦からは開放されて行くだろう。

 

悟りを求めずとも、ここにすでに答えがあるようにも筆者は感じるのであった。