ヴィパッサナー瞑想 祈り 効果 意味があるのはどっち

ヴィパッサナー瞑想と祈り、効果・意味があるのはどっち?

ヴィパッサナー瞑想に似ているものとして祈りがあります。

 

祈りとはどういったものかというと、神など人間を超えた神格化された存在に対して、何かの実現を願う事で、宗教によってもその形式や儀式は違いますし、マントラを唱えるものや瞑想のようなものなど、その形は様々です。

 

 

一方ヴィパッサナー瞑想はというと、一見祈りにも似ていますが、ヴィパッサナー瞑想では偶像崇拝などはしませんし、対象は自己だったりします。

 

アーナパーナーなどのサマタ瞑想は対象を設定しない瞑想ですので、何も考えたり願ったりはしません。

 

 

このようにみると、祈りとヴィパッサナー瞑想は全く質が違っていて、異なったものだとも思えますが、しかし、ゴエンカ系の10日間のヴィパッサナー瞑想合宿では、最後に愛の瞑想というものを実践しますが、これは別に神格化した存在などは出て来ませんが、対象を外に向けていますので、祈りに近いものなのではないのかなとも思います。

 

 

また、祈りは対象を設定して行いますが、これもいわばそこに集中・没頭し、自己や執着を離れるという事を目的としていますので、そういう事を考えると、類似性もあると言えると思います。

 

 

そして、この祈りの対象物には、神・自然・宇宙など様々なものがありますが、帰依心は愛の現れという事で、愛が伴わない限り祈りの効果は低いとも言われていますので、抽象的なものを拝むよりも人格神の方が良いとも言われているようです。

 

 

また、インドの方では瞑想と祈り両方行う事が大切と考えられており、そのバランスも保たれているようです。

 

 

そして、祈り・瞑想の両方をバランス良く行っている方からは、良き人格・溢れる愛・慈悲の心・良いオーラやパワーなどを感じる事が出来るともいわれています。

 

 

世界には様々な宗派の宗教がありますが、中には自分達だけが正解だと思い込み、瞑想を否定的な目でみたり、狭い世界に閉じこもってしまったりというバランスを欠いたものも沢山あると思いますが、そういった新興宗教はやはりパワーはあれど他者への愛が感じられなかったり、慈悲の心が欠けていたり、自分達の宗教にガチガチに執着していたりという事が外から見ているとすぐに感じられるものだったりします。

 

 

瞑想や祈り・宗教というものは政治的なものや派閥を作ったり徒党を組んだりする為のものではありませんので、本来ならば自己を高める為のものならばオープンな姿勢であるべきだと思います。

 

でないと、折角の瞑想や祈りで執着を捨てる行為も、全く意味が無くなってしまうと思います。

 

 

現代の新興宗教と初期仏教では、根本は似ていますが真逆の事を普通にやっていたりするので、驚かされます。

 

 

自分がニュートラルでいるという事は仏教において何よりも大切な事なのではないのかなと思います。

 

そこを常に考える必要があるのではないかなとも思います。