ヴィパッサナー瞑想 2日目

2日目

2日目は普通に起きる。

 

人間の適応能力は凄く、慣れないテントも案外平気なものだ、と思い始める。

 

初日は休憩時間は上手く使えなかったのだが、この日は、風呂にも上手く入れた。

 

なかなか、人が多く時間も限られているのでゆっくりは出来ない。

 

ササッと並んでササッと入る必要がある。

 

 

そういえば毎日夜寝る前に講話と言って、ゴエンカ氏の話と、物語形式の話を聞く時間があるのだが、これが結構好きだった。

 

 

薄暗い部屋で、瞑想をして、ボーッとしているような心地よい雰囲気のなか、瞑想の指導とブッダの逸話のような話を聞くのだ。

 

 

印象に残ったのは、ブッダは宗教ではないというフレーズ。

 

宗教にはちょっと思う所がある自分としては、それに凄く共感した。

 

 

ブッダは人間の苦悩はなぜ生まれる?どうしたら開放されるのだ?という思いがあって、悟りの境地にたどり着いた訳だが、現代ではその教えは乱用され、派閥化し、自分が本物だ、悟りを開いただの言い合って戦争したり、お金を稼ぐ道具としたり、権力を得るが為に政界に乗り出したりと争いの種になっている…

 

 

冷静に考えて思うのは、そんなものはブッダ(キリスト)の思想とは真逆で、苦悩の中に自ら突き進んでいくようなものだという事。

 

 

こういう事を考えれば、いかに現代の新興宗教が不純なものか、苦悩を生み出す土台となって矛盾を生み出しているかがわかる。

 

 

 

アメリカの映画で、人類がほぼ壊滅した第二の世界で、新たな世界を一つにまとめあげるにはバイブルが必要だとし、キリストの聖書を巡り争うというストーリーの映画があるが、これはよくこのことが描かれていると思う。

 

要は、人々を楽に支配するには一つのルールがあった方が都合が良く、聖書などがちょうど良い。
それを二次利用して教祖を名乗り、組織化を図るという構図。

 

あとは信者には熱心に経典を勉強するよう教育すれば良い。
それだけしか考えられないように夢中にさせ、ロボットのようにしていけば良い。

 

宗教・平和の為にと綺麗事を言うが、二次利用された教典に末端信者ほど熱心だという新興宗教団体には注意が必要だと思う。

 

 

こういう言葉もある。

 

信+者=儲かる。

 

非常に良く出来ている言葉だと思う。

 

 

 

 

ヴィパッサナー瞑想が信頼出来る点としては、宗教ではない。営利目的ではない。という点でとても正当性を感じる。

 

 

そう言う面で、宗教と瞑想の教え・悟り・苦悩・開放は全く別物だと思う。

 

 

 

豪語してしまったが、筆者の家庭は、親族共にバリバリの新興宗教に染まってしまっており、活動をしない自分はまるで親不孝物かのような、はみ出しもの的な存在になってしまっているので、このあたりは熱くなってしまうのだ。

 

 

そんな馬鹿な話は無い。

 

宗教によって家族さえもバラバラにされてしまってはたまったもんではない。

 

なんだか良くわからない宗教に家庭が乗っ取られてしまっている。

 

結婚時に宗派の違いで揉めたりだとかもよく聞く話だ…。

 

 

 

そんなものは悟りや人間の苦悩を増やしているだけである。

 

ブッダなどとはなんの関係もない、全くの偽物である。

 

 

 

このことも、筆者がこの合宿に興味を持った理由でもある。

 

 

 

と、この2日目はこんな憎悪?とも戦いつつひたすらアーナパーナー呼吸法を実践…
(本当はこんな邪念・雑念を抱いてしまってはいけない…。)

 

 

実際にこんなに考え事をしていた訳ではないが、分量はわからずとも、思ったのは事実。

 

よって事実を述べる。

 

 

また、段々みんな知恵をつけてきて、座布団みたいなものを自由に使えるんだが、数枚下に敷いてみたり、股に挟んでみたり、楽な姿勢を追求している人が目立った。

 

 

それはそれでおもしろかった。

 

 

ちなみに筆者もこの頃ベスポジを発見し、徐々に長時間の瞑想が苦ではなくなって来ていた。